新たな挑戦!!


by fp-nakajima

辰吉丈一郎の存在

3人娘の 次女、三女から電話があり
辰吉丈一郎の特番をみた。
彼女たちからすると
幼いころの思い出は、
ボクシングを見ている
辰吉丈一郎を応援している私は、
子供たちからは、とても印象的だったのだろう
薬師寺戦は、いまでも心に 焼き付いている。

c0155211_6382236.jpg


通称 浪速のジョー
階級 バンタム級
国籍 日本
誕生日 1970年5月15日(39歳)
出身地 岡山県倉敷市
スタイル オーソドックス(右ボクサーファイター)
プロボクシング戦績
総試合数 28
勝ち 20
KO勝ち 14
敗け 7
引き分け 1

辰吉 丈一郎(たつよし じょういちろう、1970年5月15日 - )は、日本の男性プロボクサー。岡山県倉敷市出身。大阪帝拳ジム所属。第50代日本バンタム級、第18代WBC世界バンタム級、第21代WBC暫定世界バンタム級、第25代WBC世界バンタム級王者。正しくは「丈`一郎」のように「丈」の右上に点を書く(機種によっては表示可能→「??」)。愛称は浪速のジョー。自身が幼年期にいじめられっ子であった過去を持つ。
ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)より幼少のころからボクシングを仕込まれた。中学時代の担任であった依田教諭の勧めで、中学卒業と同時に片道の電車代だけを持って大阪に渡り、大阪帝拳ジムに入門した。

粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古を付けていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしやすく、また、喧嘩の相手を掴んだり凶器を奪いやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。

なお、この時期の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。

1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナー大久保淳一が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなした後、プロ転向する。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝(18KO・RSC) 1敗。

1989年9月29日、韓国スーパーバンタム級2位の崔相勉を2回2分47秒KO勝ちでプロデビュー。プロデビューしたあと、どうしても靴磨きセットが欲しくて万引きしたことがある。

1990年9月11日、国内最短タイ記録となる4戦目で日本バンタム級王座を獲得。

1991年9月19日、8戦目で世界初挑戦。グレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOに降し、WBC世界バンタム級王座獲得。8戦目での世界王座奪取は国内選手としての史上最短タイ記録。辰吉の他に8戦目で世界王座奪取を果たしたのは新垣諭(JBC未公認のIBF世界バンタム級)と名城信男(WBA世界スーパーフライ級)しかいない。

しかし、同年12月、無敗のWBC世界バンタム級5位、李勇勲(韓国)との初防衛戦に向けてトレーニング中、左眼網膜裂孔が判明し、長期間の休養を強いられる。

1992年9月17日、王座奪取から丸1年ぶりの初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ、王座陥落。しかし負けたのは、双子の弟「丈二郎」と言い張っていた。

その後、1戦をはさみ、1993年7月22日、WBC世界バンタム級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。12回判定勝ちを収め、10か月ぶりの世界王座返り咲きを果たす。

ところが、同年9月、今度は左眼網膜剥離が判明し、暫定王座返上。引退の危機に。しかし、1994年7月2日、ハワイで復帰戦を行い、3回KO勝ち。この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられる。

同年12月4日、WBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、12回判定負け。暫定王座から陥落。

その後、1996年3月3日と翌1997年4月14日の2度にわたり、WBCスーパーバンタム級王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑むが、いずれも敗戦。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。

同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑戦。圧倒的不利の予想を覆し、7回TKO勝ち。約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たす。

1998年3月8日にはホセ・ラファエル・ソーサ(アルゼンチン)の挑戦を退け、初防衛。同年8月23日には同級1位の指名挑戦者ポーリー・アヤラ(アメリカ)と対戦し、2度目の防衛に成功。

12月29日、元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)を相手に3度目の防衛戦を行うも、6回KO負けを喫し、王座陥落。

1999年8月26日、挑戦者として大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)でウィラポンと再戦するも、7回TKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。

しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。

2002年12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収める。

2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラと対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。

2005年4月16日、日本武道館で行われたWBC世界バンタム級の防衛試合でウィラポンが長谷川穂積に判定負けを喫した。新王者長谷川への表彰中、辰吉がリングに上がり、インタビュー中の長谷川を無視してウィラポンの片手をあげ、そしてリングを一周した。リングを一周した後、辰吉はウィラポンと共に立ち去り、チャンピオンベルトを長谷川に渡さずベルトも一緒に控え室へと帰った。この行為にファンからは辰吉への非難の声が大きい[1]。

現在プロボクサーを目指している長男・寿希也とともに奇跡の王座返り咲きを信じて練習を続けており、2008年5月には一部メディアで同年8月にタイで復帰戦が行われる可能性があるという報道がなされた[2]。

しかし、国内でのリング復帰期限である2008年9月25日を迎え、さらに大阪帝拳ジムが辰吉の試合を組む意思がないことを再三に亘って明言しているものの、辰吉本人は一貫して現役に拘っており、「オレはどこでも試合する」と意欲満々である[3]。

そして、同年10月、タイ・バンコクのラジャダムナン・スタジアムで復帰戦を強行。地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たした。

この試合に関して、日本ボクシングコミッション(JBC)は試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。

12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。これに対しJBC側は不快感を示し、近日中にタイ側に質問状を送ることを明らかにした。同28日、ライセンス失効後初めてJBCと対談。JBC側は所属する大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。それに対し、辰吉側は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せている。

2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝(5KO)1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。世界タイトル戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明している。


エピソード [編集]
ボクシング番組の解説などでパンチドランカーの症状(呂律が回っていない、発言内容が支離滅裂など)を見せている。

ACのCMに出演し「いじめはすごかったですよ。親が泣くくらいでしたからね。」などと幼年期に自身がいじめに遭っていた事実を告白しているが、いじめを克服した後、小学生時代から中学生時代までにやった喧嘩では負け知らずで、その間の不良少年としての"武勇伝"は今でも伝説になっているという。喧嘩では拳は使わず(理由は相手が大怪我するから)平手打ち(掌底)を使っていたという。本人いわく、これが効果抜群で、フォローにひじ打ちを併用すれば文句無しだったらしい。
中学時代は皆勤賞、3年間一度も欠席がなかったという。これも恩師の影響が大きかったとか。
中学生の頃、辰吉は、下校途中にベンツを横付けされ、ヤクザにからまれたことがある。その時、辰吉は「おっちゃん、そんなにすごまんとってぇや」と言いながら、車のウィンドーに近寄っていくと、即座にキーを回転させて抜き取り、道路脇に生い茂っていた草むらに向かってキーを思いっきり放り投げると、笑いながら走って逃げたことがあるという。
本格的にボクシングを始めて3回目のスパーリングであったが国体2位の選手を左ボディーブロー一発で倒した事により辰吉はボクサーとして世間の注目を集め始める。しかし、アマチュア時代、試合に敗れた精神的ショックからジムを飛び出し、半年ほどホームレス生活を送る。本人曰く、この間、自動販売機の釣銭返却口を漁ったり、ダンボールハウスで野宿したりと散々な日々を過ごしていたとの事だが、そんな中、偶然立ち寄った喫茶店で現在のるみ夫人(旧姓:徳丸)と出会い、ホームレス生活から立ち直り競技に復帰するきっかけを与えられる事となる。
1987年の沖縄国体の会場通路でピューマ渡久地と大喧嘩をしそうだったことがある(理由は沖縄出身で発音に訛りのある渡久地が文句あっかと言ったのを辰吉が儲かってまっか?と聞き間違えたから)。このエピソードはボクシングファンのあいだでは知られた話だが、渡久地は引退後インタビューに答えて、(国体の)大阪代表が騒いでいたので怒鳴っただけで、辰吉と喧嘩になったことはないと証言している。
辰吉は非常に練習量の多いボクサーとしても知られている。一時期、他のジムの練習生や若手ボクサーが大阪帝拳ジムに出稽古に行く際、彼等のトレーナーは「辰吉とは絶対一緒に練習させないでくれ」と大阪帝拳のトレーナーに頼み込んでいたという。その理由は、辰吉相手のスパーリングで選手が潰されてしまう事に対する懸念ではなく、辰吉の日々の猛練習を目の当たりにする事で選手が競技を続けていく自信を失いジムを辞めてしまう事に対する懸念であったとの事である[要出典]。
当時、タイの無敗チャンピオン19歳のシリモンコン・ナコントンパークビューに左ボディを入れ九の字の体勢にさせ、その時に解説の浜田剛が興奮しすぎて、ナイスボディと大声で連呼したのはマニアの間では語り草になっている。

現在は、大阪帝拳ジムにて、現役復帰を期して練習に励む傍ら、実子である辰吉寿希也のトレーナーを務めている。辰吉自身は再三に亘ってジムサイドに自分の試合を組むよう懇願したが、その度に、大阪帝拳ジムの吉井清前会長は「お前の体が心配だから試合は組めない」と辰吉を諭していた。
初めて世界タイトルを獲ったリチャードソン戦の試合直後に、第一声でTVカメラにむかって、「父ちゃん、やったで!」という、マニアなら誰でも知っている名言を残した。
辰吉の人気はすさまじく、辰吉を見て、ボクシングを始めた人間はかなり多い。その中には、世界チャンピオンになった畑山隆則もいる。ただ、畑山が世界を獲った際に、辰吉の名前を騙り、「ようやったなあ、おめでとう!」と辰吉になりきって、悪戯電話をかけた人間が存在する。そのためか、畑山とは誤解が生じたようで、畑山がさんまのまんまに出演した際には、「辰吉なんて、片手で倒せる」と言われてしまう。

戦績と獲得タイトル [編集]

戦績 [編集]
アマチュアボクシング:19戦 18勝 18RSC 1敗
プロボクシング:28戦 20勝 14KO 7敗 1分
戦 日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1989年9月29日 ☆ 2R 0:47 KO 崔相勉 韓国 プロデビュー戦
2 1990年2月11日 ☆ 2R 2:18 KO チャーチュード・エウアンサンパン タイ
3 1990年6月28日 ☆ 7R 2:10 KO サミュエル・デュラン フィリピン
4 1990年9月11日 ☆ 4R 2:51 KO 岡部繁 日本 日本バンタム級タイトルマッチ
5 1990年12月18日 ☆ 2R 3:04 KO ジュン・カーディナル フィリピン
6 1991年2月17日 分 10R 判定 アブラハム・トーレス ベネズエラ
7 1991年5月19日 ☆ 10R 判定3-0 レイ・パショネス フィリピン
8 1991年9月19日 ☆ 10R 3:00 TKO グレグ・リチャードソン アメリカ合衆国 WBC世界バンタム級タイトルマッチ
9 1992年9月17日 ★ 9R 1:19 TKO ビクトル・ラバナレス メキシコ WBC王座陥落
10 1993年2月11日 ☆ 2R 1:55 TKO ホセ・ルイス・ベガヒル メキシコ
11 1993年7月22日 ☆ 12R 判定2-1 ビクトル・ラバナレス メキシコ WBC世界バンタム級暫定王座決定戦
12 1994年7月2日 ☆ 3R 2:48 KO ホセフィノ・スアレス メキシコ
13 1994年12月4日 ★ 12R 判定0-2 薬師寺保栄 日本 WBC世界バンタム級王座統一戦
14 1995年8月26日 ☆ 9R 2:59 TKO ノエ・サンティヤナ メキシコ
15 1995年11月23日 ☆ 8R 2:55 TKO ヘロニモ・カルドス メキシコ
16 1996年3月3日 ★ 11R 2:47 TKO ダニエル・サラゴサ メキシコ WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ
17 1996年12月21日 ☆ 10R 1:02 TKO フェルナンド・アラニス メキシコ
18 1997年4月14日 ★ 12R 判定0-3 ダニエル・サラゴサ メキシコ WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ
19 1997年7月26日 ☆ 10R 判定3-0 リカルド・メディナ メキシコ
20 1997年11月22日 ☆ 7R 1:54 TKO シリモンコン・ナコントンパークビュー タイ WBC世界バンタム級タイトルマッチ
21 1998年3月8日 ☆ 12R 判定3-0 ホセ・ラファエル・ソーサ アルゼンチン WBC防衛1
22 1998年8月23日 ☆ 6R 3:00 負傷判定3-0 ポーリー・アヤラ アメリカ合衆国 WBC防衛2
23 1998年12月29日 ★ 6R 2:52 KO ウィラポン・ナコンルアンプロモーション タイ WBC王座陥落
24 1999年8月26日 ★ 7R 0:44 TKO ウィラポン・ナコンルアンプロモーション タイ WBC世界バンタム級タイトルマッチ
25 2002年12月15日 ☆ 6R 1:10 TKO セーン・ソー・プロエンチット タイ
26 2003年9月26日 ☆ 10R 判定3-0 フリオ・セサール・アビラ メキシコ
27 2008年10月26日 ☆ 2R 2:47 TKO パランチャイ・チュワタナ タイ
28 2009年3月8日 ★ 7R 1:03 TKO サーカイ・ジョッキージム タイ




獲得タイトル [編集]
全日本社会人選手権バンタム級優勝(アマチュア)
日本バンタム級王座(防衛0=返上)
WBC世界バンタム級王座(防衛0)
WBC世界バンタム級暫定王座(防衛0)
WBC世界バンタム級王座(防衛2)

現役復帰の経緯と今後の展望 [編集]
2003年9月以降、2008年10月のタイ国における復帰試合に至るまでの5年余りもの間、辰吉は全く試合を行っていなかった。先述の様に長期ブランクを経て海外で復帰を果たしたものの、現在日本におけるプロボクシング興行に出場するため必要な、JBCの発給するボクサーライセンスは更新・保持しておらず、また後述のように今後も更新・再取得出来ない身分にある。

2007年5月に37歳の誕生日を迎えたことで、JBCルールに基く強制引退の対象となったが、辰吉はWBC世界バンタム級、日本バンタム級の元王者であるため、特例措置として直前の試合から5年以内に再起すれば厳しい条件付ながら日本国内での現役続行が可能な立場にあった。とはいえ前述した通り、辰吉は網膜剥離の既往者であるために、世界戦またはそれに準ずる試合でしか国内での選手活動は不可能な立場にある上、当時所属先であった大阪帝拳ジムを始めとする関係者はそもそも辰吉の現役続行に難色を示していたため、実際に特例措置の申請と試合実施は実現しなかった。

そして2008年9月25日をもって上記特例期間が終了し、辰吉は事実上国内での試合出場が不可能となった。今後は、かつて網膜剥離でJBCのライセンスを失効していた頃、あるいは先述のタイ国での試合出場と同様に、外国のコミッションでライセンスを申請し、日本以外の各地で試合に出場することは今後も可能である。だが、海外のジム所属の“逆輸入”選手として日本で試合を行う際には、JBCに臨時のボクサーライセンスを申請し、これを取得する事が必要である。しかし既に強制引退選手の対象となっている上、JBCはタイのコミッションやプロモーターに辰吉に試合をさせないよう求めているため、試合が許可される可能性は低い。

2009年3月8日、再起後2戦目でタイ国スーパーバンタム級1位のサーカイ・ジョッキージムに7R 1:03TKOで敗れた。辰吉は試合後に

再戦を希望した。




c0155211_16121570.gif
人気ブログランキングへ参加してます・・・・
「こだわりの『  辰吉丈一郎 』 」 に
           ↑↑↑↑↑↑↑↑
 ポチっ とお願いします!
・・・・・ありがとうございます。

[PR]
by fp-nakajima | 2009-05-30 06:33